『健全なる精神は健全なる身体に宿る』
よく耳にする言葉ですが実際は意味が間違って広まっているそうです
古代ローマの風刺作家で弁護士であったユウェナリスの詩集の中に出てきた言葉が元だそうです
ただ “健全な身体だからこそ健全な精神になる” という意味ではないそうです
ユウェナリスの本心の話
興味深かったのでざっくり調べてみた原文の話を要約します
人は神様に見当違いなお願いをする
お金を持っても幸せになれるとは限らない
長寿だとしても幸せになれるとは限らない
美人やハンサムでも幸せになれる訳ではない
お金も持っていても泥棒にあうかもしれない
長寿でも五体満足でいられる訳でもない
異性にモテても浮気や不倫の誘惑が多くなる
そんなことを願うくらいなら心身ともに健康であることを願うくらいが丁度いい
そしてこれなら誰でも自分で達成できるし不幸になることもない
というような話で健全な精神は健全な身体に宿るということが言いたかったわけではなく心身ともに健康であることを願った方がいいということが言いたかったそうです
幸せについて考える話
今の私とほとんど同じような解釈です
そもそも幸せって何ですか?
お金ですか長寿ですかモテることですか?
お金はあるに越したことはないし長生きもした方がいいとは思います
もちろんモテれば嬉しいとは感じます
でもそれが幸せということではないでしょう
どれもただの幸せまでの過程でしかありません
貧乏でも楽しければ幸せですし短命でもやりたいことやり切れたら満足です
モテなくてもただ1人だけあなたが思う最愛のパートナーがいれば最高だと思います
お金や長生きや異性にモテることが幸せだなんてそんな短絡的な考えでは欲望に取りつかれて人生に疲れ切ってしまいますよ
たまにするから贅沢で毎日贅沢なら日常です
長く生きてもすっからかんなら無駄死にです
誰も本気で愛せないなら不幸だと思います
汗水たらして稼いだからこそお金がありがたいのです
ただ長生きをするだけではなく生きることに意味があるから長生きしたいのです
そしてどんな困難でもともに支えあえるパートナーだからこそ大切だということです
そうやって1つ1つ感謝や楽しいことやつらいことがあるからこそかみしめる感情が幸せです
幸せな人生を歩むための話
神様にお金をくださいと願ってもらえたお金なんてあっという間に無くなってしまうでしょう
お金のありがたみや苦労が何もありません
わかていてもまたお願いすればいいやと散財してしまいます
散財した後はもう2度と元の生活になんて戻れなくなるでしょう
ただ長生きしても苦しいだけです
あと100年健康で生きられるといわれても別にやりたいこともない人生なんて無期懲役みたいなもんじゃないですか
願いを聞いてもらった神様に「そろそろみんなみたいに老いて死んでいきたいなぁ」なんて後から恥ずかしくてお願いできませんよ?
いろんな異性にモテたところでその人に均等に愛するような器用なことは私にはできません
正直これに関しては一時的な衝動や欲望としか思えないので理解すら苦しみます
1人を真剣に愛せたならそれでいいと思います
その人以外にモテたところでお断りする心労が増えるくらいにしか考えられません
むしろ本当に好きな人が心配して悲しい顔したり別れたりする方が不幸なのではないでしょうか
そんな短絡的な欲望を願うくらいなら今日も1日健康で生きれてありがたいことだと感謝をできることの方が幸せです
そもそも願いごとというシステムがよくわからなくなってきました
願いごとは他人に希望をゆだねるというシステムではなくて私はこうありたいので応援してくださいと祈るシステムとして考えた方がいいと思います
今後の抱負とか目標とかやりたいことの宣言みたいなものでしょう
他人にゆだねる人生よりも自分で実現させていく人生の方が私は豊かな人生だと感じます。